2007年1月21日(日)「神の恵みによって」Tコリント15:9〜10 河野智穂世

今日のコリンと人への手紙で、パウロは「神の恵みによって、私は今の私になりましたと証ししています。パウロのこの短い一言には彼がどのような姿勢で、主の働きにあたっていたのかが、端的に記されています。このところから2つのポイントからご一緒に学んでいきたいと思います。

一つ目のポイントは、土台をイエス様に置くということです。パウロは、「私が祈ったから、今の私になった」とも、「わたしが伝道したから、今の私になった」とも言っていません。また、「私にたくさんの賜物があったから、今の私になった」とも言っていませんし、「わたしがたくさんの良いことをしたから、今のわたしになった」とも言っていません。彼はただ、「神の恵みによって」と告白しているのです。それは高慢でもなく、反対に自己卑下でもありません。 パウロは、イエス様に救われる前の自分の罪の状態を良く知っていました。9節「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」ここでは、その理由を神の教会を迫害したからと記されています。しかし、後で実はイエス様が神様であったことを認識した時に、自分は神様に対して敵対し、神様のじゃまをしている状態であり、それは大きな罪であることを認識しました。
また、その後書かれた、ローマ人への手紙では、自分の原罪について、つまり行為の罪ではなく、人間が生まれながらにもっている心のうちにもともとある罪の状態・これを原罪といいますが、これについて苦しみ、もがいている姿が、赤裸々に記してあります。彼は自分が罪人であることを、神様によって指し示されていました。彼は、神様のみ前で何者であるかを良く知っていたといえます。彼は、別の箇所では、自分のことを「罪びとのかしら」と呼んでいます。だからこそ、イエス様の十字架の恵みが、深く、深くわかるのでしょう。10節「15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」
パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」といっています。パウロはこのところで、彼の働きも、今の彼自身も、神の恵みが土台にあってこそという、神様に対する姿勢、つまり謙遜な姿勢と感謝にあふれています。その感謝とは、神様の恵みによって、自分はすばらしい働きをさせていただいたという感謝です。「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」神様の恵みの土台の上なんだ。だから感謝だったんですね。でも、もし神様の恵みが土台になっていないと、どうでしょうか?自分をほこったり、自分ができた行い、人にできた親切を自分の栄光にしてしまうのではないでしょうか?

 さて、今日の2つ目のポイントは、神の恵みを無駄にしないということです。私たちは、神様の一方的な恵みによって救われました。しかもその恵みが、イエス様の大きな犠牲の上に成り立っています。そして私たちがクリスチャンとして、成長していくのも、神様の恵みによるのです。パウロは彼に対する神様の恵みは「無駄にはならず」と告白しています。神様の恵みを無駄にするとは、どういうことでしょうか?いろいろな面からいえると思います。神様の恵みを無駄にするということは、神様の御声を無視するということが挙げられると思います。自分の好み、自分の都合を優先するということ、神様より大切にしているものを、神様に明け渡さないということもあります。さて、また、不信仰、神様を信頼しないということも、神様の恵みを無駄にするといえるでしょう。罪によって心の目が鈍っていると、クリスチャンとしての喜びを知ることができないばかりか、それを軽んじてしまいます。罪と示された時にはいつも悔い改めていく必要があります。

ほかにも神様の恵みを無駄にするということに該当することはあると思いますが、その中の大きなものを上げてみました。お互いはどうでしょうか?もし思い当たることがあるなら、神様に悔い改めて、恵みの出発を今週もしましょう。また、取り組まなければならない問題、神様から示されている問題はありませんか?それは、ある人は心の内側の問題かもしれませんし、ある人は人間関係かもしれません。ある人は、神様より、人に頼りすぎてしまうところかもしれません。また、ある人は神様に喜ばれない習慣を示されているかもしれません。そのところを神様と共に一歩一歩取り組んでいきましょう。そして、豊かな実を結ぶ者とさせていただきましょう。


2006年12月10日(日)アドベント第2週 『神は共におられる』 マタイ1:18〜25 河野智穂世師

私たちはさまざまな計画を持ちます。今週は仕事をここまで片付けようという事から、5年後、10年後にこうしたいと希望を持って計画を持つことがあります。でもある時には、人生の中で私たちが計画したこととは違うことが起こり、計画を変更せざるを得ない状況ということも度々起こってきます。

1)正しい人ヨセフの葛藤(迷い):今日の聖書の箇所にでてくるヨセフという人も、将来のことに計画を持っていた人でした。マリヤと結婚するという計画を持ち婚約中でした。しかし、二人が一緒になる前に、マリヤが身ごもっていることをヨセフは知ったのです。
 さて、当時のユダヤ人社会は、日本の今の制度とは違う独特の結婚制度を持っていました。婚約中の一年は、法的にはすでに結婚関係にあるものとみなされ、「夫」とか「妻」という言葉をつかうのは普通のことでした。その婚約期間中にマリアの妊娠が明らかになりました。おそらくマリヤ自身がヨセフに語ったのではなく、ヨセフは何らかの方法でその事実を知ったのです。当然の事ながら、彼は深い葛藤を経験します。ヨセフは敬虔なユダヤ人であったので、律法に即した解決策を考えます。選択肢は2つありました。それは、まず@律法の規定に従ってマリヤをさらしものにし、石打の刑に処す道。もう1つは二人の証人の前で離婚状を与えて、内密に彼女を去らせるという道。ヨセフは義か憐れみかで揺れ動きましたが、彼は義には「あわれみ」も含まれていることも知っていた人でした。それで彼は、マリヤを内密にさらせる方を選びました。

2)神様のご計画:さて、その時、そこに神様が介入されました。主の使いが夢に現れて「恐れずマリヤを迎え入れなさい」と、神様のことばを伝えます。ヨセフは何を恐れていたのでしょう?神に従う正しい人だったので、律法違反になることを恐れていたのかもしれません。しかし神様は、ご計画があることを主の使いを通して知らして下さいました。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」そして、その男の子は使命があるというのです。聖霊によって身ごもったということは、罪の本性、原罪を持って生まれていないということです。これは、非常に大切なことです。人々を「罪から救う」為には、神の聖さが必要です。聖霊によってイエスの完全な品性と受肉がなされました。神であり、人であるイエス・キリストの誕生。多くの人はここで信じられず、躓きます。しかし、ここに信仰が必要です。神様は全能のお方であり、奇跡を起す力があるという信仰です。人間の理性では、理解できません。なぜなら人の知恵は神を超えていないからです。全能の神様が、人々を永遠の滅びから救うためにご計画を持たれた。それがイエス・キリストという救い主を通して、人の罪の刑罰の身代わりとなって十字架で贖いをなしとげ、3日目に復活されたという事実。それを信じるものに永遠のいのちを与えるという神様の永遠の救いのご計画と約束。まさにその救い主の計画が、マリヤを通して実現されていることをヨセフに語りました。マリヤもヨセフも普通の人々です。けれども、神様の大きなご計画の中に用いられ、ヨセフは告げられた主の御使いの言葉を信じ、その後マリヤを妻として迎え入れました。
 

3)神は我々と共におられる:さて、もう一度主の使いが語った内容を吟味してみましょう。まず、主の使いは「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけています。イエス様の誕生は、アブラハム契約の延長上に起こった出来事です。マタイは、この福音書の書き出しを「 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」で始めています。それは、旧約聖書の中で預言されていた救い主はダビデの家系に生まれることが予告されていたからです。そして、イエス様の誕生は、旧約聖書の預言の成就でした。22節と23節は、イザヤ書の引用です。旧約で預言されていたことが、イエス様の誕生で成就されるということです。  
イエスは救い主として誕生されました。イエスとは、「主は救われる」という意味です。イエス様に与えられた使命は、「ご自分の民をその罪から救うことでした」
最後に、イエス様はそのご人格と御業を通して「インマヌエル、神が我々と共におられる」ことを明確にお示しになりました。マタイの福音書の最後は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束で終わっています。時代が変わっても、世紀が変わっても、神様が私たちと共にいて下さるという真理は変わりません。

クリスマスは神様が私たちと共にいてくださることを再確認する時期でもあります。試練にであったり、葛藤の中にいる方も、神様が共にいてくださることに信頼しましょう。神様はヨセフと共にいて下さいました。そして、神を求めるすべての人と共にいて下さいます。


2006年11月12日 「あきらめない」マルコ福音書10:46〜52 河野博好師

多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。・・・・なお道を進まれるイエスに従った。                      マルコ11:48、52

 日々に寒さが厳しくなって来ています。先日は教会の庭にも霜柱が見られました。紅葉も終わりに近づいていますが、朝日を受けた山々に輝く紅葉も鮮やかな色を私たちに楽しませてくれます。
さて、今日はマルコによる福音書の中から、盲人バルティマイの信仰から「あきらめない信仰」について恵みを分かち合っていきましょう。4つある福音書の中では、マルコによる福音書は初めて聖書を手にする方にも比較的読みやすいかと思います。全体の長さも短く、またイエスの活動が非常にいきいきと描かれてあり、ダイナッミックな感じがします。今日の登場人物は、バルティマイという盲人です。イエスがエリコの町に行き、そこを出て行こうとされている時に出来事は起こりました。バルティマイという一人の盲人(おそらく生まれつきの盲人であったのでしょう)がイエスとその一行が通り過ぎようとされていたその道端に座っていました。今日も、自分の行くべき道を見失い、あるいは人生に疲れてその途上の道端に座っている多くの人々がいます。時に立ち止まって自分の今までの人生を振り返って考えることは、大切な時です。忙しすぎて自分自身を見失ってしまい、人生の末路にむなしさを覚える人もいます。このバルティマイはどのような思いで道端に座っていたのでしょうか。
47節を読みますと、このバルティマイはナザレのイエスのことを聞きます。信仰はまず聞くことから始まる、と聖書は語っています。神について、イエスについて正しく聖書から知ることが大切です。自分勝手な思い込みによる聖書の読み方は判断を誤らせます。神がわたしをどのように見ておられるのか、神は私に何を望んでおられるのか、正しく聖書から知ることが大切です。バルティマイはイエスのことを聞いて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(47節)と言い始めました。彼はイエスを「ダビデの子」と呼びました。救い主がダビデの子孫としてお生まれになることは旧約聖書の預言でした。そしてバルティマイはイエスがその救い主であると告白しました。それは聖霊による正しい信仰告白です。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしましたが、彼はあきらめずに叫び続けました。そしてその叫び声にイエスは耳を傾け、立ち止まられました。バルティマイが持っていた信仰は叫び続ける信仰でした。求め続ける、その信仰をイエスはよしとされました。
バルティマイの叫び声に立ち止まられたイエスは、彼に「何をしてほしいのか」(51節)と率直な質問をします。バルティマイは即座に「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)と答えました。皆さんはいかがでしょうか?今日ここでイエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられたら、明確に、具体的にこれをしてください、と言うことができるでしょうか。熱心な願いは明確で率直な言葉で神に訴えます。バルティマイの信仰は明確な目的を持った信仰でした。たとえ言葉数は少なくても、真摯で熱心な祈りに、神は耳を傾けられます。
バルティマイの願いにイエスは答えられ、彼の目はすぐに見えるようになりました。そのバルティマイにイエスは「あなたの信仰があなたを救った。」(52節)と信仰の確信をバルティマイに語られました。神は聖霊によって私たちの信仰に救いの確証を与えてくださるお方です。
 自分の願いがかなえられたバルティマイはその後どうしたでしょうか。彼は「なお道を進まれるイエスに従った。」(52節)とあります。祈りが答えられることはすばらしいことです。しかし、さらにすばらしいことはその祈りをかなえてくださったお方に従って歩むことです。バルティマイは従い続ける信仰を持っていました。神はご自分に従って歩む人を用いてすばらしい御業をなされるお方です。
 決してあきらめなかったバルティマイは、叫び続ける信仰、明確な目的を持った信仰、そしてイエスに従い続ける信仰を持っていました。盲人バルティマイは肉の目もいやされましたが、イエスを見続ける霊の目、信仰の目を持って歩んで行きました。しばしば挫折や苦難に出会い、倒れそうになったり、座り込んでしまいそうになる日々の生活の中で、バルティマイの信仰を顧みられたイエスに信頼して歩んでまいりましょう。
 
 天の父なる神さま、私たちの日々の生活には、意気消沈したり、思わぬ出来事に悩まされる事が起こります。しかし、あなたへの信仰をあきらめないで執拗に持ち続けたあのバルティマイのように私を導いてくださることをお願い致します。またそのようにしてくださることを感謝致します。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


2006年10月22日(日) 「神と共にある人生」 創世記50章15〜21節 河野博好師

「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」創世記50章20節


教会の庭に咲いていますコスモスが、一時期しなえていましたが、やはり“秋の桜”と書いて”コスモス“と呼ぶが如くに、この時期に復活してきれいに咲き乱れています。また、菊の花がつぼみを見せ始めています。花はその咲くべき時を知っているようです。
 
さて今日は「神と共にある人生」と題して、共に聖書から恵みを分かち合っていきましょう。創世記には、さまざまな人物が登場してまいります。その中で今日は、ヨセフについて見ていきましょう。アブラハム、イサク、ヤコブと続く家系の中で、ヨセフはヤコブの11番目の子供として生まれました。ヤコブが年老いての子供であったので、どの息子よりもヨセフをかわいがり、彼には特別の晴れ着を作ってあげたりしていました。そのことは他の兄たちにヨセフへの憎しみ、ねたみを引き起こしました。ある日、ヨセフは夢を見ました。その夢は兄たちがやがてヨセフにひれ伏すというもので、それを聞いた兄たちはますますヨセフを憎むようになりました。やがて、兄たちの策略によってヨセフはエジプトへと売られていくことになります。

奴隷として売られていったエジプトでヨセフを待ち構えていた出来事は、無実の罪での投獄でした。その監獄の中で、エジプト王に使えていた役人の夢を解き明かしたヨセフでしたが、その恩を忘れられ、しばらく監獄生活を送ります。しかし、幸いなことにその2年後、今後はエジプト王の夢を解き明かした功績により、ついにエジプトの最高責任者として治世を任せられるようになりました。一方、ヤコブたちが住んでいた地方では飢饉で苦しんでいました。ヤコブは息子たちにエジプトに行って、穀物を買ってくるように命じます。そこで穀物を買うためにエジプトへ出かけて行ったヨセフの兄たちは、ヨセフと劇的な再会をします。最初はヨセフだとは気づかなかった兄たちに無理難題を持ちかけて末の弟やヤコブのことなどを尋ねるヨセフでしたが、つににその身を明かします。やがてヤコブの一家はエジプトへと移住します。ヤコブはエジプトの地でその147年の生涯を終えました。兄たちの悪を赦したヨセフに対して、その赦しを確信できない兄たちへのヨセフの言葉が冒頭にあった聖書のことばです。
「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50章20節)

 奴隷からエジプトの宰相へと、その波乱に富んだヨセフの人生から神は信じる者と共に働いて最善をなしてくださることを教えられるのではないでしょうか。三つのことを教えられます。まず第一に神のご臨在、神が共におられるということです。奴隷として、また監獄でのヨセフを支えていたのは、創世記39章に度々出てくるように、“主がヨセフと共におられた”ということでした。神がヨセフと共にいつもおられたということは、孤独にあったヨセフを幾度なぐさめ、励ましたことでしょうか。二番目に神の視点から自分の人生に起こるさまざまな出来事を見るということです。ヨセフは兄たちの策略によってエジプトに売られた自分の人生を神の視点から見ました。創世記45章7、8節に「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの物を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」とヨセフは兄たちに語りました。事実は、兄たちの策略によってエジプトへ売られたヨセフです。しかし、彼はそこに人間の思い、計画を超えた神のご計画を見て取りました。私たちは過去の事実を変えることはできません。しかし、その意味を信仰の目で見直すことはできます。そして、三番目にヨセフは神の最善を信じていました。たとえ、人が自分に対して悪をたくらんだとしても、神をその悪を善に変えることのできるお方である、と信じていたのです。パウロもまた、こう述べています。「神を愛する物たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)

お祈りいたしましょう。
愛する天の神さま、あなたがいつも私と共におられることをありがとうございます。
たとえ、私の人生に予期せぬことが起こり、悪と思えることが起こったとしても、あなたはそれを善に変えることができるお方です。私を最善の道へと導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。