一羽のすずめ

このコーナーは、日常の中で考えたことをコラムとして載せています。


2006年11月15日(水) 実を結ぶ

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切善意、誠実、柔和、節制です。」ガラテヤ5:22

 先日、駒ヶ根愛の家に行くと、周囲は農園なので、りんごの収穫時期でした。たわわになっているりんごをほれぼれと見つめてしまいました。良い土と日光と適度の水から栄養を得て、たくさんの実をつけていました。私たちの人生で、神様に出会ったことは最大の恵みです。その神様につながっていくとき、聖霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切善意、誠実、柔和、節制です。これを、私の人生の中でも結ばせようと神様はご計画されたとは、なんという驚きでしょうか?人間的な愛も、喜びも、平和も、寛容も、親切も、善意も、誠実も、柔和も、節制も限界があります。また、自己中心という闇で汚れています。しかし、神様は、私の人生の中において、キリストに似たものに変え続けてくださるという事実!!私は、たくさん失敗します。しかし、この御言葉は、御霊の実は、こういうものだと教えてくれます。そして、それが神様の力によって私のうちにも実を必ず豊かに鳴らせて下さるのです。神様につながっているならば。だから、安心です。


2006年10月18日(水)「30倍、60倍、100倍の実」

「 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」マタイ13:8

 今年は、いろいろな植物を育てることに挑戦してみました。おくら、ミニトマト、ピーマン、ハーブ数種類、しそ、ブルーベリー、あじさい、コスモス、ペチュニア、etc...
実がなるものは、豊作の物もあれば、失敗のものもありました。どうやらそれは、土に関係したようです。堆肥があり、よく肥えた土からは、たくさんの実を取ることができました。しかし、そうでない土は、うまく実がならなかったり、なっても途中でかれてしまったり、腐ったりしました。
石や余計なものをとる作業、雑草をとる作業も必要です。
 神様は、私たちの人生にも、豊かに実を結ぶようにと御言葉を用意してくださいました。
神様に雑草や石を除いていただいて、多くの実を結ぶ人、結ぶ共同体にしていただきたいと願います。


2006年9月29日(金) 「別れと再会の希望」

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」ピリピ3:20

 この1ヶ月のうちに、私の知り合いで2人の方が、召されました(茅野キリスト教会の方ではありません)。一人は、母方の伯母です。59歳の若さで、約半年間の闘病生活を終え、天に帰りました。入院中で、まだ話せるときに会いに行くと、伯母はこう話してくれました。「痛みの時、無菌室に隔離された時、神様に叫んでお祈りしていた。もし、神様を知らなかったら、気が狂ってしまってたと思う」。伯母は、本当に神様によって支えられて一歩一歩病気と闘っていました。その伯母が、一番の願いは「家族がイエスさまを信じること」と話していました。自分の病気が治ることより先に、その願いを話してくれました。

 もう一人は、私が神戸で牧会をしていた時に、一緒に住んでいたおばあちゃんの姉妹。神戸のことや、食べ物、料理の仕方、昔の思い出などなど、たくさんの話を聞かせてもらいました。私が、私的な理由で神戸を離れることになり、また彼女の病状も一人では住めないぎりぎりの状態であったため、透析になっても面倒を見てくれるケアホームを探し当てました。それは、神様に用意されていたという言葉がぴったりな状況で、たった1人分だけ用意されていました。引越しの準備を終え、外泊も試してみて、そしてお別れになりました。よく影ながら祈って下さるおばあちゃん姉妹で、私は神戸時代、大いに慰められ、励まされたのでした。そして、私の結婚を本当に喜んでくれました。夏に時間がとれず、秋か冬に会いに行こうと思っていた矢先でした。訃報を聞いた夜、病室のいなくなったベットの前にいくと、私は悲しくなって泣いているという夢をみました。

 親しい人が亡くなると、その人の存在が大きければ大きいほど、その人がいなくなった心の穴を埋めるのに時間がかかると思います。
 でも、慰めなのは、イエスさまを信じている人には、やがて天国で再会できるという希望があることです。そして、その人の与えてくれたたくさんのものを思い返しながら、残された自分の生涯を、どう神様に用いていただこうかと、改めて問い直されるひとときになりました。(c)


2006年9月28日(木) 「収穫の秋によせて」

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」    ヨハネ15章5節

 “収穫の秋”です。果物のおいしい季節です。店頭にはいろいろな果物が並んでいます。
先日は、実にみずみずしいぶどうを食べました。こんなにおいしいぶどうを食べられる喜びに感謝したことです。聖書に「イエスはぶどうの木、そして私たちはその枝である。」とあります。イエスにつながっている生きる時、イエスに信頼して生きる時、私たちの人生に豊かな実を神様は結ばせてくださいます。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制・・・。
日ごとに聖書の言葉を読み、神様に祈り、賛美をささげ、信仰の友と共に交わる・・・。
イエスにつながっている、イエスに結ばれていることを感謝して生きる日々・・・。
神様はその人の人生に豊かに実を結ばせてくださるでしょう。アーメン。


2006年8月18日(金) 「野のゆり」

「わたしはシャロンのばら、野の百合」
雅歌2:1


この百合らしき花は、隣りの駐車場の雑草の中に咲いた花です。どんな名前なのかは知りません。

 しかし、生い茂る雑草の中をすくすくと育ち、ある時に花を咲かせました。写真だけでは伝わりきれないのですが、雑草の中をよく負けずに育ったなと思います。

 イエスさまは、「野のゆり」と表現されることがよくあります。雑草という世に負けず、流されず、リンと咲き、良い香りを周りに人知れず放っている。そんなことを思い巡らせた、ある日の夕方のホット和むひとときでした。


2006年8月10日(木)

「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」ルカ12:6

 一羽の雀にさえ、神様は目を注ぎ養ってくださいます。まして、私たちをも神様は、目を注ぎ養ってくださるという事実。私が献身をしてから、ずっとこの事実に励まされています。小さな存在である自分。力のない自分。しかし、神様が目を注ぎ、養ってくださるという約束。この奇跡に私たちは、日々どれだけ気づいているでしょうか?
御子を惜しまずに私達に与えてくださった神様。その愛が今日も、私にも注がれているんですね。
何気ない毎日の中に、どれほどの神様の愛が注がれているのでしょうか。神様に感謝をすると言うことは、それを見つけていく作業なのかもしれません。